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2012/11/07 私の歴史。私の想い

以前書いていたブログが、ある日突然トップページでフリーズしてしまいました。

 

仕方なく、新しいブログページで書いているのですが、

2007年4月からずっと書いてきた旧ブログへの想いもやはり強く、捨て去ることができませんでした。

 

しかし

「あのまま置いておくと、事情を知らない人は、志水さんは何もやっていない。」という誤解を招くので

良くないですよ。というアドバイスをくださる方も多く、確かにその通りだな、と思いましした。

 

そうなると、旧ブログを整理してしまわないといけない訳ですが

全てを捨て去るのはいかにも惜しい!!

 

かといって

全てを残すわけにも行きません。

 

色々と悩みました。

 

そこで

旧ブログの、始まりの部分 「なんで建築やを目指したのか??」という部分だけは残しておこう

という結論に至り、このHPの片隅に置いておくことにしました。

 

私が、なんで建築やになろうと想ったのか??

 

興味ある方は読んでみてください。

2012/11/07 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その①

 息吹木の家(旧志水住建)は建築やです。

でも昔からそうだったわけではありません。

わたしたちが建築屋になったのは1998年。
バブルが終演し、消費税が3%から5%へ
あがった、当時として最悪の頃だったのです。

なぜわたしたちはは建築やになったのか?
それまで何をしていたのか?
皆様に知って頂きたくて以下自己紹介します。

途中から説明するとなかなか難しいところが
ありますので、私の生い立ちからお話しします。



1958年(昭和33年)私は志水家の三男として
この世に生を受けました。

三男と言えば当然兄が2人。
きっと「今度は女の子」と思っていたお袋や親父は
さぞやがっかりだったのではないかと思います。(笑)

当時の志水住建は『製材所』
地松を挽いていました。

松というのは、海辺などに生えているアレ。
この辺りでは、地松を家の構造材に使っていたのです。

でもそんなことはずいぶん後で知った話。
当時の私は、家が何をやっているのかも知らず、
ただただ脳天気に、三男としての道(そんなものあるのか?)
を歩んでいたのです。

当時小学校の私は勉強が嫌いで、学校へはただひたすら
友達と遊ぶために通っていました。

]そんな私をみて母は
「そんなに勉強が嫌いなら、経営は兄がやるのだから、
将来は工員として工場で働かせよう。」
と真剣に思っていたと当時を振り返って言いました。

当然学期末にもらってくる成績表は推して知るべし。

当時の通知票は5段階。
4とか5なんて言う数字はとてもこの世のものとは思えませんでした(汗・・汗)

うちのおじいさんは、孫達が少しでも勉強ができるようにと
通知票に4とか5をもらってくるとおこづかいをくれたのですが、
兄たちはよくもらって喜んでいました。

当然私はと言うと・・・・・・・
もらうのは“わるご(悪さをするという意味)をした時の“お灸”
だけでした。(もらうのではなく罰ですが・・・・)

今でも背中によくされたお灸の熱さは覚えています。(泣)

そんな私にも変わる転機が来るのです。
つづく
2012/11/06 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その②

 時は流れ、中学時代。

勉強嫌いの“わるご”も小学校時代よりは少しは
おとなしくなっていました。

中学になると部活というものがあってほとんどの
人達はそれに入るようです。

小学校時代の友達が、ブラスバンドに入るというので
何となくそれに入ってしまい、トランペットを吹いて
いましたが、・・・・
それも何かかったるい。

気づくと、中学に入ってから仲良くなった友達が陸上部にいて
熱心に取り組んでいた。
今度はその友達の練習に付き合っているうち陸上
にはまっていく。

お前には自分というものがないのか!とお叱りの声
が聞こえて来そうですが・・・・・・(笑)

でもこの陸上にはまり、その中で新しい仲間ができた、
そのことが私の人生に大きな転機を迎えさせたのです。


なんか無理矢理ドラマ仕立てにしているように思われそうですが、
この仲間がみんなそろって優等生。

2年からは生徒会の3役を揃ってやるような連中。
私と連中とでは勉強に関しては“月とすっぽん”

でも無二と言える親友関係ができあがっていったのです。


中学も2年も後半になると、そろそろ進学の話が出てきます。
連中はもちろん、この地域の進学校志望。
「ヤバイ!このままでは親友達と離ればなれになってしまう!」
この想いが、私を勉強に向けさせました。

「ぼく津山高校へ行く!」(津山高校はこの地域トップクラス進学校)
突然も決意に一番驚いたのは、私のことを心配していたお袋でした。

それからは一生懸命に勉強。
2年の終わりには「無茶を言うな。」とあきれかえっていた先生も
3年の2学期には「もしかして・・・・」と思うようになっていたのです。

そしていよいよ受験・・・・・・

つづく
2012/11/05 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その③

 いつまでたっても「なぜ息吹木の家は建築やなの」ということが出てこない。

と言う皆様、もうしばらくお待ち下さい。
ここからが良いところなのかもしれませんよ。

余談話は置いていおいて・・・・

さあいよいよ受験。
最後には先生も「志水、いけるぞ!自信を持ってやって来い。」
と言ってくれるまでになっていました。

その頃合格発表は、受験番号だけでなく名前まで張り出すようになっていました。
「絶対にある。」自信を持って親友達と見に行った合格発表。
名前を探す。名前を探す。名前を探す・・・・・・・・

無い・・・・・・・・・・  無い・・・・・・・・・・・



親友は皆合格。
私はどうやって家まで帰ったのか、今でも思い出せません。

その頃、大学まで進学しようと思えば津山高校に入るのは必要最低条件。
仲間達は当然上を目指すでしょう。
「浪人してもう一度津山高校へ!」そう決意しました。

ところが、その決意はしばらくすると覆ってしまいます。

と言うのも、ある信頼出来る方が「私立のS高校は今年から本格的に
進学クラスを設立し、非常に熱心な先生が教鞭を執る。その一期生として
がんばってみないか!?」と言ってきたのです。

S高校は当時、正直な話とても優秀と言えるところではなく、どちらかと言えば
行くところが無い者が行くような学校でした。(大変失礼な話でスミマセン)
私は、迷いに迷ったあげく、S高校へ行くことを決断しました。

S高校は市内に流れる川を挟んで南側にあり、他の学校は全て北側にありました。
私の所から学校に通うには、みんなとは明らかに別の方角に行かなければ
ならなかった・・・・・


特に最初のうち、これは本当に辛かったですね。
受験のことと言い、本当に挫折感を味わったこのころです。

でもその折れそうな心を支えてくれたのが、熱心な高校教諭のY先生と、
「津山高校だけには絶対に負けん!」という“負けん気”だったのです。

今思えば、津山高校に受かってなかったからがんばることができたし、
挫折感から人に対する思いやりも芽生えるようになったのかな、と思うことがあります。

つづく
2012/11/04 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その④

 「津山高校だけには絶対に負けん!」

そう誓って入ったS高校特別進学クラス。

その頃、津山高校も含めほとんどが6時間授業だったのですが
我が特進(特別進学クラス)は7時間授業。
他の生徒が授業を早々と終わっている状態では、
もちろん部活などする余裕はありませんでした。

と言うと、とっても暗い高校生活を送ったと思われがちですが、
何か奇妙な連帯感みたいなものがあったのでしょうか、
クラスは妙にまとまって、厳しい中にも結構楽しく過ごせたのは救いでした。


月日は流れ高校3年生。
いよいよ勝負の年です。

兄貴どもが遠くの大学に行って不良(?)していたせいで
「お前は関西よりむこうには出さない。」という
とっても理不尽な(→.←)言葉を受け、それならと言うことで
関西の有名私立と言われる学校は全て受けました。

結果は・・・・・
おかげさまで全て合格!! \(^O^)/


「津山高校だけには絶対に負けん。」とがんばってきた少年はやっと
「ざまあ見ろ、津山高校!」
やっとそんな風に思える事ができたのです。.゚・(´□`)・゚.
      
  <strong>「がんばれば成果につながる。」</strong>
やっとこんな事を思うことが出来ました。

しかし、気持ちだけでやってきた私にとって、いざ大学に進学と言っても
行きたい大学はあっても何学部に言ってよいのやらさっぱり分からない。
私の場合、理数系は不得意な典型的な文化系だったのでなおさら。

しかも前述しましたように、私は3男。
家を継ぐのはハッキリ兄貴と分かっていたので、いよいよさっぱりです。

ただ、家を継がない、イコール就職をしなければならない、
これだけは分かっていたので
当時一番就職率が良いと言われていたK大学の経済学部へ入学。

いよいよ花の大学生活の始まりです。
2012/11/03 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑤

 負けん気だけでやってきた私は、大学に入ってから何をして良いやら・・・・・。


これは東大進学だけを目的にやってきた人が人生の目的を達成してしまい
何をやればよいのか分からない、と言うやつと同じなんでしょうね。

しかも、田舎で育った少年が突然日本第2位の都会に行くものだから
ハッキリお登りさん!

勉強もそこそこ。ただ、兄貴達の不良のせいもあり、家の経済状況が
あまり良くなく、仕送りが十分でなかった事からバイトだけは一生懸命にやっていました。

そんなとき、建築やになってからも脈々と受け継がれる事になる、
私を変える運命のアルバイトに出会います。


「おーい志水、えーアルバイトあるんやけど、せーへんか?」
友人の誘いに乗って始めたアルバイト。
それは旅行社の添乗員だったのです。

「旅行には行けるわ、お金はもらえるわ、こんなえーアルバイト他にないで!」
友達の言葉をそのまま真っ直ぐに受け取り、ほいほいとやったバイト。

でも
自分の考えが甘かった事に気づくのにそんなに時間はかかりませんでした。


人様のお世話をするのは、こんなに大変なんだ・・・・・。

本職の添乗員がいるとはいえたった一人。
私を合わせると二人(誰でもできる計算ですね)
その2人で3百人程の旅行のお世話をする。

そうなんです。
このバイトは、主に、と言うかほとんどが修学旅行のお世話なんです。

何せ大人数ですから、ちょっと動くのも大変。
移動中には常に次の手配。

今のように携帯電話でもあれば良いのですが、その時代にそんなものを持っているのは
大企業の社長さんくらい

どこかへついたら、すぐに次の段取りのために赤電話で次の段取り
これが長くかかると昼飯もろくろく食べる時間がない、なんてことも・・・

移動中のバスの中では、接待で決して寝てはいけない。

夜は最後のお客様が就寝されるまでご接待。
(大体寝るのが午前2時位)

朝は朝とて、元気の良い生徒達の起床時間はとっても早い!

その上、たいがい生徒が何らかのいたずらをしているものですから
その被害の検証並びに保険請求の手続き。

旅行中にやらなければならない事は山のようにありました。

帰ってきたときにはもうへとへと。
「最初の頃はこんなバイト幾らもらっても2度とやるものか!」
と思っていた私なのですが・・・・

九州の阿蘇には数十回行きました。
何回も通っていると、ここでガイドさんが何を言う。
ここに来たら「やまなみハイウエー」の歌を歌う。
新米のガイドさんは、みんなパターンが同じなので、そんな事まで分かるようになりました。
他東北や、北海道へも何回か。

なぜそんな苦しいバイトを続けていけたのでしょうか?

それはお客様からとっても素晴らしい宝物を頂けたからです。

それは
「志水さんと一緒に旅行ができて本当に良かった。またお願いしますね。」

これなんですね。
これがあったからやめることができなかったのです。

一生懸命に人のお世話をし、その結果喜んで頂く、
私はその喜びの一部を皆様から頂戴する。
これこそが、この仕事の醍醐味じゃないか!

大学を卒業したら旅行社に就職する!
私の決意は固まりました。

2012/11/02 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑥

 大学を無事4年間で卒業し(実は最後の最後でちょっと危なかったのですが・・・)Οо。(>。<≠)

いざ就職先の東京へ!

東京のアパート。
それは一番上の兄貴が住んでいる所。

実は、私が東京へ行く、→ 兄貴のアパートに入る
→兄貴は津山に帰り、実家の製材所を継ぐ
という構想のもと、私が兄貴のアパートに入ることになっていたのです。

予定通り、私は荻窪にある兄貴のアパートへ。
住み慣れぬ東京。訳の分からぬまま職場へかよう毎日。

ですが、兄貴はいつまでたっても津山へ変える様子がない。
ちょっとイヤな予感・・・・・・・・

兄貴とは、忙しいんで深夜になって会う位。
お互い世間話くらいで特に何も話し合わない。
(男兄弟ってそんなモンですよね。)

というかお互い核心の話は避けていたのかも。

5月も終わりになるある日、親父から突然私への電話が・・・・・・
訳も言わず「とにかく一度津山へ帰ってこい!」
ただならぬものを感じた私は、会社への言い訳を繕って、繕って 津山へ。

和室の仏壇の前に座り、親父が口火を切る。
「お前の兄貴は製材所はやらんと言うとる。」
「えーやっぱりか。」イヤな予感がしていた私は心の中で叫んでしまいました。
「2番目がおろーが。」
「あれも、今更なんでそんなことを言うんなら、と断られた。もうお前しかおらんのじゃ!」

心なしか親父の肩が震えているように見えました。
「ワシもこの製材所をおじいさんから継いで一生懸命やってきてここまでにした。
やめる言うても従業員もぎょうさんおる。何とか続ける事も考えにゃあ おえんのんじゃ。」

私も行く所がなくて今の仕事をしているのならともかく、好きで惚れ込んで
今の仕事に就いた。今更やめるなんて口が裂けても言えない。

親父は普段は材木やらしく、豪放磊落(ごうほうらいらく)で小さな事にこだわらない、
どちらかと言えば豪快な性格なのだが、この時は・・・・・・
『肩が小さく見える』と言う比喩がありますが、まさにそんな感じ。
大きな存在の親父が、何か頼りなく小さく見えた瞬間でした。

私は悩んで、悩んで、悩んで・・・・・・
決めました。

もう何年か今の仕事をしてから帰る、という選択肢ももちろんありましたが、
好きで選んだ仕事。やれば未練が必ず残る。
「今ならやめられる。」

「親父!1つだけ条件がある。ワシは3男だから、御社に骨を埋める覚悟で
やります。お願いします。と言って会社に入った。今更やめるなんて言えん!
東京へ行って頭を下げられるか?」
親父はすぐさま頭を下げに東京まで来ました。

私は旅行やから材木屋になることになってしまいました。

この時に学生時代から付き合っていた彼女に思い切り相談しました。

それが今の女房です。

あのまま東京にいたら、女房とと呼べる関係になっていたかどうか・・・・。
人間の縁も分からないものです。

2012/11/01 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑦

 材木屋になったのは良いのですが、何せ立派な3男の道を歩んでいた私(笑)


だから、どれが檜で、どれが杉で・・・・・・さっぱり判りません。(汗)

世間から見れば、まさに“ろくでなしのおぼっちゃま”が行く所がなくて
帰ってきた状態です。(汗・・汗)

何にもわからん奴が、いきなり経営だなんてとんでもない。
何も出来ない、知らない新入りがやることは決まっています。

まずは現場から。

当時弊社は、製材業の仕事(丸太を買ってきて、四角くして、建築の材料などにする。
それを市場に出して“せり”で売ってもらう)

材木やの仕事(四角い製品になったものを市場から買ってきて、工務店、大工さんが
いるものをそろえて納入する)

大ざっぱに言うと、この2つをやっていました。(現実には、ハッキリ別れているものでなく
混ざり合った部分も沢山あるのですが)

※せり~築地の魚市場などの様子をテレビで見たことがあるでしょうか?アレと同じ。
    最近はネットオークションをやっていますが、あれの現実版。



丸太の買い付けなどは、ある程度経験を積まなければ出来るはずがない。

最初にやっていたのは、「木をおなじ種類そろえる補助」「工務店に材木を納入する補助」
あくまで、“補助”の、まだまだ役立たず。

でもこの時期に実に沢山のことを教えて頂いたのも事実です。

ある工務店の作事場に行ったときの事。

「志水君、この木はいけんわ。」と老大工さん。
「なんでもかんでも、いけんと言えばええと思ってからに。」
とちょっとムカッときて「なんでおえんのんですか?」と私。
「この木自体がおえん、と言うとんじゃあないんで。この木とあの木を梁としてつなぐんじゃろう?
つながれる木同士が“嫌じゃ”と言うとんじゃ。 わかるか?」

無論当時の私に判るはずがありません。
「分からんかったら、分からんでもえー。そんなことが分かるようになったら一人前じゃ。」
老大工さんは、笑って言いました。

この大工さんが何を言いたかったのか、分かるようになるには、まだずいぶん長い年月が
必要でした。

この紙面でも口で説明するのは非常に難しいのですが、
木には1本1本“癖”があって、必ず曲がったり、反ったりします。
2本の木をつなぐときには、その癖を見極め、木同士をつないだときに、
お互いが「がちっと」結合するようにしなければならないのです。

そうすることで、家の動きを最小眼に押さえることが出来るし、狂いがない
長持ちする家ができあがるのです。

木の世界は本当に深い。
勉強しなければ・・・・・

それからは「これは。」と思う木があったら、“木挽き”さん(丸太の木取りをする人)
について、どういうように挽いていけば良いのか、勉強をしましたし、時には指導の元
自分自身で挽いてみたりしました。

結論として、
「じゃあ、木のことはよく分かっているんですね?」と言われると
「うーん?」としか言えないと思います。

これは例えば人間にたとえると、偉い先生が書いた子育ての本があって、
その通りに育てるとみんなが良い子ども(何が良いか悪いか疑問だが(・_ ・。)?)
が出来るか、ということと同じなんですね。

人が一人一人違うように、木も1本1本違います。
だから、もちろんマニュアルなんてものがあるはずもなく、
全てが、“経験とそれに裏打ちされた勘”によるものです。

ですから、他の人達よりも遙かに知ってはいますが、「この木は100%こうなる。」
ではなく「こうなるだろう」
だから「こういうように使った方がいい。」
言葉としてはそんなような言い方になってしまいます。

でも、「木は本当に難しい」と言えるからこそ「木は本当におもしろい」
し、「木の世界は本当に深い。」と言えるのです。

こんなところは、材木やの一つの醍醐味であり魅力ですね。


ちなみに、現在では、この“木の癖”というものを極力打ち消すために、
『乾燥材』を使うことが主流というか当たり前になっています。

2012/10/31 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑧

 木の世界は本当に奥が深く、携わっているものにとって魅力のあるものでした。


しかしながら、『商売』として考えてみると
材木やというものは、前述しましたように、単純に言えば、丸太を買ってきて
丸いものを四角くして、それを売る。という考えて見れば非常に単純なものです。
それ故逆に、そこに“付加価値”をつけることが難しいのです。

ですから、ちょっと商売上の差別化を考えてみると

「単価を安くして売る。」
「注文から納品までをなるべく短くする」
「大工さんが刻んだ材料を現場まで持っていく」
「同じ単価なら、なるべく良いものを売る」
ざっと考えてこのくらいですか?

配達を迅速にするなどのサービス面には限界があり、自ずと商売の方向は『単価』
に向けられることとなるのです。

しかもそれは、内容如何に関わらず、単純に値段が高いか安いか、という割り切りでした。
実際、「材料の善し悪し」2割、「単価」8割と言った具合にです。

釈然としないものを感じつつも、「これが商売というもの。」という割り切りを
持って、材木やの商売を続けていました。


時は1995年、1月。阪神淡路大震災が発生。

激烈な地震が神戸を襲い、多くの尊い命が犠牲になりました。
多くの建物が倒壊。中でも古い木造家屋が見事にやられました。

その頃、勢力を伸ばしつつあった大手ハウスメーカーは、「木造家屋倒壊、しかし
ハウスメーカーの家はほとんどつぶれていない。」という宣伝を怒濤のごとく
始めたのです。

あらゆるメディアを使った宣伝活動に、当然かなうはずもなく、今まで比較的好調
に推移していた業績が一気に右肩下がりに下降を始めました。

皆様も良くご存じのように、この大手の宣伝はウソではないけれども、誇大広告
そのものでした。

ただその時は、残念ながら、「木造住宅は危ない!」という
風評だけが先行してしまったのです。その事実を学者先生達が認定しはじめたのは
1年以上先になってからでした。

当時業績が下降したのは、もちろん弊社だけでなく、業界全体でした。

何とかしなければならない、とい想いだけはあっても前述の通り、「木造住宅倒壊」
という事実だけが先行する世の中。

そんな中、私も所属していた業界の若手の会からこんな発案が出てきたのです。

「木造住宅がそんなに弱いとは到底思えないが、倒壊したのも事実。そして、家がなくなって
困っているのも事実だ。木造住宅復権、そして何よりも困っている人達のために役立つ事を
みんなで考えよう!」

とても素晴らしい発想だということで、このことは、すぐに具体的な計画に向けて動き出しました。

私達はこの計画を「神戸の家プロジェクト」と名付けました。

具体的方法としては、
津山出身で神戸に家を建てて住んでいた人の家の地盤が崩れ、倒壊した。
当然この人も困っている。
みんなで材料を出し合って寄付しよう。
工務店は、製材所もやっている数社で協議して格安で建ててもらう。
ということ。

つまり第一段階として、まずはモデルケースとしてこの家の復興を行う。

第2段階としてこの計画を足がかりにして、「大震災で被災した人には、木材料を格安の卸値で提供
します。」と呼びかける。(もちろん本当に復興に役立てるため)

そして最終段階で、そのことを大々的に宣伝して、マスコミ、特にテレビに取り上げてもらう。

こうすれば、被災者の皆様にもお役に立てるし、木材のすばらしさも分かってもらえる。

そうして、それをメディアにのせて全国に発信する。

出来れば某国営放送でやっているようなドキュメンタリータッチのようなのが良いな、
みんなの夢は膨らみました。

この計画を各製材所、市場関係など、この地域の業界全体へに発信。
みんな一様に参加には乗り気になってくれました。

神戸にも何回も足を運んで着々と前に向かって進み始めました。

その頃になると、若手だけでは大変だろう、と業界の重鎮たちも動き始めてくれたのです。


2012/10/30 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑨

 ところが・・・・・・・・


今思い出しても何とも嫌な気分になってしまう事件が起こってしまうのです。

上棟日当日、業界の若手、重鎮とも大挙して神戸に集結。

当日は、演出効果もねらって「餅まき」もやる予定にしていました。

事前にマスコミ各社には連絡を入れておいたし、数社の取材があるはず。

もうそろそろ、
もうそろそろ・・・・・・

来るはずの取材が一向に来ないではありませんか。
結局来たのは、小さな新聞社が1社だけ。

「エー何で?」
張り切ってきていたみんなに落胆の色が広がります。

訳の分からないままその日のイベントは終了してしまいました。

直接交渉した者が後日聞いて来たのは
「あなた方が一枚岩となって、業界をあげてこのプロジェクトをやると言うから
取材という話になったんですよ。それがなんですか。取材なんぞしてもらったら
困る。止めないとひどいことになるよ。 なんて言う連絡が入ったんですよ。
全くもって一体お宅らの業界はどうなっているのやら。」
と言うことでした。

私達にしてみても、その話は正に“晴天の霹靂”でした。
一体誰がそんなひどいことを・・・・・

犯人はあいつじゃあないか、と思う者がいても証拠があるわけではありません。
色々と言ってみても今更どうしようもない話でした。


神戸の人達からの問い合わせがあるから、と設置していた事務局には若手が交代
で詰めていたのですが、問い合わせはさっぱり・・・・・・
あんな事があったから、予想していた事とはいえ皆ショックは隠し切れませんでした。

このことには私も個人的に相当ショックを受けました。
このプロジェクトは、材木やも団結していけばこれだけの事が出来る、
ということを世に示す絶好の機会と考えていたし、少し材木やに失望しかけていた
自分に、これから材木やを続けていくパワーを与えてくれるものだと信じていたからです。

神戸の家プロジェクトはこうしてあっけなく終わってしまいました。

私は、今まで材木やを続けてきて、製品の善し悪しではなく単価を最優先する体質
に代表されるような業界のどろどろしたものには、いい加減嫌気がさしていました。
(どこの業界でも内部はこんなものかもしれませんが・・・・)

そこにもってきて、希望から絶望へ。
何とかしなければ、という想いだけが募っていきます

2012/10/29 なぜ息吹木の家は建築やなの?? その⑩

 企業というものは、本来利益を追求するもので、“儲け”を出さなければつぶれてしまいます。


それは当然材木やもそうだし、工務店にしてもそうです。

景気が悪くなると利益率は悪化し、それを何とか改善しようとすれば、
「売り上げを伸ばす」
「仕入れを圧縮する」
「その両方をやる」(理想としては)
こういった事しか方法はありません。

バブルも終焉を迎え、しかも大震災による木造住宅離れというダブルの打撃を受けた
建築業界は、売り上げを伸ばす、という方法は非常に難しく、必然的に下請けの業者に対する
厳しい値下げを要求していました。

弊社のお得意様の工務店も例外ではありませんでした。
(全ての工務店が以下のようである訳ではありません。誤解無いようお願いします。)


ある工務店が新築住宅を取ってきます。
見積もりを入れると
「こねーなもん高いがな!もっと安うーせいや。」と工務店。
「いや、充分限界までやってますよ。これ以上は本当に難しいですよ。」と私。
「オメーの所は、エーもん入れようとしすぎるんじゃがな。柱やこーでも、痛んどって
安いのがあろーがな。あんなんでええんじゃけん。」とまくし立てる。
「それでもあれじゃあ、さすがにおえん(いけない)でしょう。」
「そねーなこと、言よーるけん安うーならんのじゃがな。もう一遍見積もりし直して
こいや。予算は○○しかないんじゃけん。」

正直な話、背に腹は代えられません。渋々絶対に使いたくないようなものを見積もりしました。


悶々としたものを感じながら過ごしていたある日。
運転手が休んでいたため、私が変わりとしてその工務店の材料の納入に行きました。

作事場に行くと見たような顔の人がいます。
久々に会う友人でした。

聞くとお施主さん。

彼は、私を見かけると、すぐに近づいてきてこう言いました。
「志水が材料入れてくれるんか。ほんなら安心じゃな。」

・・・・・・・・・・・・・
「ウン・・・・・・・・」小さな声でこれしか言えませんでした。

この時に思ったのです。
「このままじゃあいけない。私はお客様が喜ぶ仕事をしたかったはずだ!」

私はその想い一つで工務店になることを決意しました。



材木やから工務店へ転身することは、予想していたより遙かに大変でした。

「もうダメかな。」と何度も思いました。

その間、色々な人々にお世話になり、色々な人々と出会い
アドバイスを頂き、支えて頂き、時には裏切られたこともありました。

そんなこと全てが、今の私達の財産となっております。
お世話になった皆様には、幾ら感謝しても感謝しきれないくらいです。

今、工務店となった私は、女房と共に昼となく夜となく、また平日も休日
もなく忙しく働き回っています。

人は「そんなに休み無しで大変じゃろう。」と心配してくれます。
でも全然大変じゃあないんです。

それは、材木やの時にはなかった充実感や、満足感があるから。
昔いって頂いた
「志水さんのところでお世話になってよかった。ありがとうございます。」
というお言葉が頂けるからです。


長い、長い、そしてつまらない話で誠に申し訳ございません。
でも、私がどんな想いで工務店になったのか、
その原点をやっぱり知っていて欲しかったのです。

これからこのブログに、建築やとしての、わたしの想いを
どんどん書き込んでいきたいと思います。

建築に対する想いや真面目さ、そして探求心ではどんな老舗の工務店
にも引けを取らないつもりです。

皆様のお役に立てるような記事を書いていきたいと思いますので
よろしくお願いします。